2026年9月11日 直原裕naohara hiroshi
前回は、天孫降臨神話が成長・変遷して「記紀」の最終形に至るプロセスを追いました。今回から、その初めの段階について、天孫降臨神話がいつ、なぜ、どのようにして生まれたかを考えようと思います。
3 天孫降臨神話のはじまり
(1) いつ誕生したか
神話学から見ると
はじめに、天孫降臨神話に関する神話学者の見解を見てみよう。日本と朝鮮の神話を研究した泰斗三品彰英は次のように述べている。
「高天原という天界思想は北方アジア諸民族の間に著しく発達している世界観であって、そこでは天神と日の御子の信仰が顕著である。アマテラス大神を招祷するためにアメノウズメが行なった跳躍的呪舞は北方大陸系のシャーマニズムのそれであり、ヤマト朝廷がそれを受容して独自に発展させた呪儀であった。それに対して日向のワダツミ的穀霊伝承は南方系の古層に属する文化であり、儀礼神話の段階においてこの新古の両者が結合され、降臨神話と岩戸がくれの神話とが相補的に発展したのである」(三品「記紀の神話体系」p.146)
比較神話学の大林太良は次のように述べる。
「日本神話を大づかみに分けてみると、大体、四群にまとめることができる。第一は天地初発の時からイザナキ、イザナミの国生み、アマテラスとスサノオの争いの神話、第二は出雲を舞台とする神話、第三は天孫降臨神話、第四は日向神話である。(中略)第一、第二の群にも、少数ではあるが、アルタイ系遊牧民族文化につらなる神話要素が混っているが、それが、非常に強く表面に出ているのは、第三の天孫降臨神話である。このようなアルタイ系遊牧民文化神話要素は、おそらく支配者文化の一部としてもたらされたものであろうが、日本に入るとき、果して征服騎馬民族によってもたらされたかどうかは、疑わしい。私は、現在では、弥生時代、邪馬台国の段階にすでに形成されていた日本の支配者層が、のちに(古墳時代に)朝鮮から王権神話のさまざまな要素を選択的に受容した可能性のほうを重要視している」(大林『日本神話の起源』p.223~224)
日本古代の祭祀と神話を研究した岡田精司は次のように述べる。
「天上に神々の高天原、地下に死者の黄泉国を想像する垂直的な世界観と、海の彼方の常世国から訪れる神を信じる水平的世界観と、記紀神話には二通りの宗教的世界観が併存している。この対立する信仰については、さまざまな説明がなされているが、もっとも一般的なものは、前者を北方大陸系、後者を南方系として、文化系統の差異に求めようとする説である」(岡田『古代王権の祭祀と神話』p.248)
「山上降臨神話の成立には、天上の神の世界=高天原の思想の成立を前提として考えなければならない。天上の観念が成立するためには、日本のように水の彼方の他界観念から天上の神の世界の観念へと発展する国では、文化系統の問題よりも、専制的支配体制の確立がより重要な契機として考えられるであろう。五世紀末の倭王武=雄略のころから、(中略)専制的支配体制の整備がいちじるしく進展する」(同書p.252)
碩学3人の見解にほぼ共通しているのは、弥生時代以来、南方系の水平的世界観の強かった日本列島に、北方遊牧民族の天界・天神の考え方が朝鮮を経由して入り、それが天孫降臨神話の元になったということだ。大林は古墳時代に朝鮮から王権神話が日本に入ったとし、岡田は雄略朝に高天原の思想が成立したと示唆している。
この後述べるが、「書記」では応神朝から急に渡来人の記述が増える。おそらく5世紀初め頃から大陸の先進文化・技術が渡来人と共に流入した。その中に、王を天神の子孫とする王権神話が含まれていたと考えてよいと思われる。それが元になって、倭国内において、天孫降臨神話の原形とも言うべきものが作られたのだろう。それは、いつ、誰によってだろうか。
欽明16年条
手懸りが、「書記」欽明16年(西暦555年)条にある。仏教を倭国に伝えた百済の聖明王が、その前年に新羅との戦いで殺害された。このため支援を求めて、王子恵が倭国に派遣された。その恵に対して蘇我卿(稲目)が大意次にように語ったという。
「雄略天皇の御世に、百済が高句麗に侵攻され累卵の危うきに至った(475年に高句麗の侵攻で時の蓋鹵王が殺害され事件を指す)ときに、雄略天皇は、『邦を建てた神(建邦之神。倭国の建国の神)を招いて百済を救援すれば国家は鎮まるであろう』との託宣を受け、これを実行して国家の安寧を得た。邦を建てた神とは、天と地が分かれ、草木がまだものを言っているような時に、天から降って来て国家を造った神である。近頃百済は祭祀を止めてしまっているが、これを改め、神の宮を修理して神の霊を祭れば国家は栄えるであろう」
蘇我稲目はこう語り、百済王子を諭したというのだ。ここに天孫降臨神話と思われるものが言及されている。天から降った神が国家を造ったと。そして雄略天皇がこの神を招き従ったと。
蘇我稲目は、百済の危機に際し、80年前の前回の百済の危機を振り返って、その時に雄略天皇がとったと伝わる対応を百済王子に話したわけだが、稲目にとって雄略天皇と言えば天孫降臨神話だったのではないだろうか。少なくとも、雄略天皇の時代に天孫降臨神話があったことは間違いない。(写真21)
ワカタケル
天孫降臨神話の原形を作ったのは、その雄略天皇であるように思われる。私がそう考えるのは次の理由からだ。
ブログ第15回で、「書記」の天孫降臨神話一書第四を取り上げた時に述べたように、天孫降臨神話と神武東征神話は、同時にその原形が誕生したと考えられる。東征において神倭磐余彦(神武)に随従して勲功を挙げた大伴と来目(久米)が、天孫降臨神話の最も古いバージョンと思われる一書第四でも天界から降臨する瓊瓊杵に随従しているからだ。二つの神話は、「記紀」を読むと間に木花開耶姫の物語や海幸・山幸の物語が挟まっているが、はじめからセットだった。
その東征神話において、神倭磐余彦は大和地方を平定すると橿原で即位する。その場面を「書記」は次のように描いている。
「辛酉の年の春正月の庚辰の朔に、天皇は橿原宮に即位された。この年を天皇の元年とする。(中略)このため古語にこの天皇をたたえて、
『畝傍の橿原に、宮柱を底磐根に太しき立て、高天原に搏風峻峙りて(千木を高くあげて)始馭天下之天皇』
と申し、名付けて神日本磐余彦火火出見天皇と申し上げる」
ここに「辛酉の年の春正月」とあるのは、ブログ第1回で述べたように、聖徳太子が建国の枠組に基づいて、神武即位を推古九年辛酉(西暦601年)から一蔀1,260年前に当たる辛酉年西暦紀元前660年に設定したことによる。それを「書記」編纂者が踏襲してこのように書いたものだ。また、神武が磐余ではなく畝傍の橿原で即位したとされたのは、三品によれば、蘇我馬子が自身の造営した新都小墾田宮に歴史的背景を与えようとしたためであったという(三品「神武伝説の形成」p.365)。これも推古朝に書き加わった、あるいは書き改められた部分だ。「宮柱を底磐根に」以下が、東征神話の原形に元からあった部分と考えてよいだろう。
そこにおいて、神倭磐余彦の本名が「火火出見」であることが明かされるとともに、神倭磐余彦が「始馭天下之天皇」と呼ばれたと書かれている。「天皇」号が使われるのは7世紀からだから、元は「大王」だったはず。つまり「始馭天下之大王」と呼ばれていたということだ。これは、明らかに「治天下大王」を基にして作った称号だろう。「治」を「始馭」に置き換えた。
よく知られているように、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣に、471年を表す干支と「ワカタケル大王の治天下を左けた」という意味の漢字が刻まれていた。また、熊本県の江田船山古墳出土の大刀には、「治天下ワカタケル大王世」と刻まれていた。これより古い出土物で治天下や大王と記されたものは見つかっていない。こうした事実から、現在ではワカタケル(雄略)が治天下大王を名乗った最初の王と考えられている。
ということは、神倭磐余彦を「始馭天下之大王」と呼んだのも、ワカタケルが最初と考えてよいのではないか。つまりは、東征神話の元を作ったのはワカタケルということになるのではないか、引いては、天孫降臨神話の元を作ったのもワカタケルということになるのではないか。ワカタケルが、大王家の祖火火出見を主人公とする大和征服神話(神武東征神話の原形)を作った。そして同時に、火火出見の父瓊瓊杵を主人公とする降臨神話(天孫降臨神話の原形)を作った。少なくともその可能性があると言えるのではないだろうか。
二人のハツクニシラス大王
ここで、「始馭天下」についてもう少し考えてみよう。なぜこの文字列でハツクニシラスと読ませるのだろうか。おかしいだろう。そういう疑問を持つと、もう一人ハツクニシラス天皇がいたことを思い出す。御間城入彦五十瓊殖、崇神天皇だ。史実では、4世紀初めにヤマト王権を樹立した初代の王と考えられている。4世紀から「書記」編纂までの時代の人たちもそのように認識していたからであろう、「御肇国天皇」と呼んだ(「書記」崇神12年条)。こちらならハツクニシラスと読めそうだ。「始馭天下」の前にこちらのハツクニシラスがあった。ワカタケルは、御肇国大王崇神とは別に、なぜもう一人のハツクニシラス大王を作ったのだろう。
こうだったのではないか。井上光貞によれば、崇神の王統は三代目の景行で一旦途切れた。応神は、景行の血を引く姫を娶り、入婿の形で王位についた(井上『神話から歴史へ』p.306。もとより証明することは困難な説だけれども、相当に確度が高いように思う)。仮にこれが事実だったとすると、このことは、応神3世孫のワカタケルの時代には周知の事実だっただろう。誇り高きワカタケルにとってこれは、自分の王位の正統性に翳りを与えるものであり、我慢がならなかったに違いない。それでワカタケルは、崇神とは別に、自分に血のつながる初代の、ハツクニシラス大王を作ることにしたのではないか(ワカタケルのこういうところは、200年後の天武天皇によく似ていると思う)。自分がヤマト王権を樹立した偉大な王の血筋にあるとするためだ。こうして、大和を征服して即位したことにした自分の祖である火火出見に、「始馭天下之大王」の称号を与えた。
想像が先走ったようなので、この件については後で別の角度から考えようと思う。
(次回から、天孫降臨神話の原形をワカタケル大王が作ったと仮定して、なぜ作ったのか考えていこうと思います。まずはワカタケルの置かれた状況から。)