2026年9月19日 直原裕naohara hiroshi

今回は、後に天孫降臨神話としてまとまる神話の原形を、ワカタケル大王(雄略天皇)がなぜ作ったか、その背景を考えます。遠回りのようですが、ワカタケルが直面する東アジアの情勢を、3世紀末頃から辿ります。

3 天孫降臨神話のはじまり

(2) 中国の動乱

3世紀末からワカタケル大王が治政をとる5世紀後半までの中国の情勢を、主として川本芳昭『中華の崩壊と拡大』と礪波護・武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』に基づき見てみよう。

3世紀前半邪馬台国連合の卑弥呼が朝貢した魏は、265年に魏朝の有力者であった司馬氏の晋に引き継がれた。晋は280年に呉を倒し、中国全土を統治した(地図13)。その晋に、邪馬台国連合女王となった卑弥呼の宗女台与が266年に朝貢して以降、倭国から中国への朝貢が途絶える。邪馬台国連合が崩壊したためだろう。

晋は軍制、土地所有制度、徴税制度、官吏登用制度などを整備し、それはその後の中国各王朝の統治の仕組みの基礎となった。しかし、3世紀末に皇位継承争いから八王の乱が起こり、続く永嘉の乱により、晋は4世紀初めにあっけなく滅亡した。これは、漢民族王朝の傭兵であった北方遊牧騎馬民族が自立し、晋の都洛陽を簒奪したことによるものだ。これ以後、華南は晋を継ぐ東晋(317-420)が漢民族による中国正統王朝として統治したが、華北は、武力に勝る北方民族、いわゆる胡族が次々と割拠し、漢民族官僚を使って統治する五胡十六国の時代となる(地図14)。華北の動揺により、この時代多くの漢人が華北から流出した。多くは華南に移り住んだが、東方の朝鮮、さらに倭国まで流れ着いた者も少なくなかったと考えられる。

4世紀中頃になると、華北のうち関東は鮮卑()(よう)部の建てた前燕が、関中はチベット系(てい)族の前秦がそれぞれ支配し、対峙する状況になる(地図15)。

前燕は、東方及び北方に侵攻して勢力を拡大し、一時期河北を席巻したが、内紛の隙を東晋に侵攻されて弱体化した。前秦の()(けん)は皇帝にはならず「大秦天王」と号した。苻堅は、漢族を含めて諸民族融合策をとり、漢族ブレインを用いて儒教に基づく国家経営を行うとともに、仏教を奨励し学問・文化を振興した。前秦は徐々に勢力を強め、370年に前燕を滅ぼし、376年には西域と結ぶ河西回廊を押さえていた漢族の前涼を滅ぼして、華北統一に成功した(地図16)。

ところが前秦はさらに中国統一を目指して東晋に攻め入り、383年に()(すい)の戦い(地図14)で東晋軍に大敗、以後衰退する。各部族長によって率いられた諸集団の連合上に成り立っていた王権は瓦解し、華北は再び諸族割拠の状態に戻る(地図17)。

淝水の戦い後、滅亡した前燕の皇族が関東に後燕を建国する。同じ頃現在の山西省北部で鮮卑(たく)(ばつ)部が北魏を建国する。後燕は、関東から山東、遼東まで版図を広げ、一時は河北一帯を支配したが、次第に北魏に圧迫され、4世紀末に崩壊、5世紀初めに滅びる。

華南の東晋は、(りゅう)(ゆう)将軍が5世紀初めに北伐を行い、後燕のあと山東半島を支配していた同じく慕容部の南燕を410年に滅ぼした(地図18)。山東半島はその後469年に北魏が奪うまで、南朝が支配することになる。川本芳昭によると、これにより5世紀に朝鮮各国及び倭国が、黄海を渡って南朝に活発に朝貢使を派遣することができるようになった。劉裕はさらに、チベット系(きょう)族が関中に建てた後秦を滅ぼした(地図18)。

東晋では皇帝の権力が弱まり、420年に武人劉裕が禅譲を受けて新たに宋を建国する。

劉裕は即位後2年で没するが、その後第三代文帝の治世(424~453年)はその年号から「元嘉の治」と呼ばれ、治政が安定し栄えた。

一方、北魏は、初代の道武帝(拓跋(けい))が、拓跋部の部族連合を構成してきた部族を、建国後に解散させた。それまで各部族長が持っていた部民に対する統率権を皇帝に集約し組織化した。川本は、帝権の強化を、それまでの五胡の国家が短命であったのと異なり、北魏が一世紀半に渡って華北に君臨できた理由の一つとしている。

尤も、古松崇志『草原の制覇』によると、この頃の北魏政権には、遊牧国家としての性格も色濃く残り、例えば、中華皇帝として天帝を祭る儒教式南郊郊祀とは別に、「平城〔北魏の当時の都で、現在の山西省大同市〕の西郊では、毎年夏に皇帝みずから西を向いて天を祀り、祭壇の周りを馬を走らせてまわるという祭天儀礼がおこなわれた」(p.30)という。中国の「天」とは異なる北方ユーラシアの「天」の観念が確かに存在していた。

北魏は、精強を誇り仏教弾圧でも有名な太武帝の時代(423~452年)に、遼西で後燕を継いだ北燕を滅ぼし、さらに439年に河西回廊に残っていた匈奴の北涼を滅ぼして(地図18)、ついに華北統一を遂げた。ここから、北の北魏と南の宋が相対する南北朝時代が始まる(地図19)。南北朝体制は、以後、北朝の隋が南朝の陳を滅ぼし中国を統一する589年まで続くことになる。

宋は、文帝の治政末期に北伐を行って失敗すると、以降皇族の内紛が起こって衰退に向かい、479年、斉に取って代わる。

北魏は、孝文帝の時代(471~499年)、その前期は年少の皇帝に代わり祖母(川本によれば実母)の太后が執政した。太后は、戸口調査とそれに基づく均田制を創始した。孝文帝親政後は、五胡時代から続いた鮮卑固有の官制、祭祀、姓族(各氏族の家格)などを中国式に改めた。493年には都を平城から中原の古都洛陽に遷した。いわゆる漢化政策であり、北魏を中国の正統王朝に位置付けることを目指すものだったと考えられる。しかし、漢化政策の行き過ぎから、6世紀に入ると北方の辺境で軍の反乱が起き、これを契機に北魏は535年東西に分裂する。

ワカタケル大王は、朝鮮半島、高句麗の先にある中国で続いた動乱の歴史を、おそらく渡来した漢人から聞いていただろう。そして宋は文帝の時代が終わると内紛から衰退に向かっていること、一方北魏はますます強大化しつつあることを認識していたと考えられる。

(3) 高句麗の南下

4世紀末から5世紀を通して、朝鮮権益の確保・拡大を図る倭国の前に立ちはだかった高句麗の歴史について、主として礪波護・武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』と武田幸男編『朝鮮史』に基づき、その中国との関係に焦点を当てて見てみよう。中国の動乱は、中国に隣接する高句麗に、多大な影響を及ぼしたからだ。

4世紀初め、晋の衰退を好機として、高句麗は楽浪郡と帯方郡を奪い、朝鮮半島に版図を拡大した。しかしその後興った鮮卑慕容部の前燕に侵攻される。「三国史記」高句麗本紀によると(その原典は「晋書」と「資治通鑑」と思われる)、342年、燕王の慕容(こう)は高句麗の当時の都、丸都(がんと)(現在の中国吉林省集安市)に大軍で親征した(地図15、地図20)。高句麗の故国(ここく)(げん)王は逃亡した。慕容皝は、故国原王の母と妃をとらえるとともに、王廟から前王(故国原王の父で、楽浪郡・帯方郡を滅ぼした美川(びせん)王)の屍を掘り出し持ち帰った。丸都城は破壊した。翌年、故国原王は燕に臣従することで、前王の屍は返された。王母は355年になってやっと帰国を許され、あわせて故国原王は征東大将軍・営州刺史(しし)・楽浪公に冊封された。これが高句麗王にとって中国皇帝から冊封されることの原体験になっただろう。与えられた官爵名がどれほど立派でも、全面的な屈服以外の何ものでもない。

高句麗は西方を前燕に押さえられ南進するが、371年、当時精強だった百済の近肖古王に反撃され、故国原王は平壌で戦死する。近肖古王は、対高句麗戦に備え、事前に倭国と外交関係を結んでいた。以後、百済と倭国が同盟して高句麗に対抗する関係が、6世紀半ばまで続くことになる。

次王、次々王の時代、高句麗は内政を充実させ復興を図った。早くも372年には、前燕を討伐して華北を統一した前秦から仏教が伝来する(地図16)。高句麗は仏教を振興した。また、内容は伝わっていないが、律令を頒布したともされている(「三国史記」)。

前秦が淝水の戦いで東晋に敗れ衰退すると、前燕を継いだ同じく慕容部の後燕と、4世紀末~5世紀初めころ、遼東地方をめぐって抗争を繰り返した(地図17)。結果として遼東は高句麗の支配下となる。

391年に広開土王(在位~413)が即位する。在位時の実績から、没後この(おくりな)が与えられた。美称が好太王である。子で次王の長寿王が、父王の勲績を後世に示すため、414年に丸都に有名な「好太王碑」を建立した。この碑文によると広開土王は、

・永楽五年乙未395年、()(れい)(北西、遼河上流地域の契丹族)に親征した。

・396年、新羅とともに元々高句麗の属民として朝貢してきたにもかかわらず391年以降倭の臣民となってしまった百済に、水軍を率いて親征し、討伐した。百済王は高句麗王に跪き、今後永くその奴客(どきゃく)になることを誓った。

・398年、軍隊を遣わして粛慎族(東方)を討った。

・399年、百済が誓いを違え倭と和通したので平壌まで南下したところ、新羅使から、国内に倭兵が侵入しているという訴えがあったので、新羅救援を約束した。

・400年、新羅救援軍を派遣し、逃げる倭兵を追って任那加羅まで追撃した。

・404年、倭の水軍が帯方界まで侵入したので、親征し倭に壊滅的な打撃を与えた。

・407年、軍隊を遣わし、百済(文字が磨滅して読めないが武田幸男は百済と推定)と戦った。

・410年、東扶余(北方)に親征した。

(以上、熊谷公男『大王から天皇へ』を参照。)

広開土王時代、高句麗は西方で後燕と、北方で契丹・扶余と、東方で粛慎と、南方で百済と戦って版図を広げたこと、高句麗が倭国を、百済と当時高句麗の属国だった新羅の背後にあって対抗する一大勢力ととらえていたことが分かる。

413年、長寿王が即位する。諡の通り497年まで在位した。この時代、高句麗は全盛期を迎える。即位の年に東晋に朝貢し、使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句麗王・楽浪公に除せられた(「宋書」列伝第57夷蛮。なお、「晋書」安帝紀には、「是歳,高句麗、倭国及西南夷銅頭大師並献方物」とあり、高句麗が倭国と共に朝貢したことになっている。倭国が9年前に戦った相手と、しかもその国王の即位記念に、共に朝貢するなどということがあり得るのだろうか。長寿王による芝居という説もあり、真偽不明だ)。東晋が410年に山東半島を領有し、強大な軍事力をもって勢力を伸長してきたことに、高句麗が対応したものと考えられている。

長寿王は、420年劉裕が宋を興すと、武帝(劉裕)から征東大将軍を加えられ(このとき百済の腆支(てんし)王は鎮東大将軍を加えられた)、次の少帝からは424年さらに散騎常侍・都督営平二州諸軍事が加えられる。

長寿王はこうして南朝との関係を強化した上で、427年都を丸都から平壌に移し、南進路線を顕わにする。さらに北朝とも関係を構築しようと、435年北魏に朝貢し、都督遼海諸軍事・征東将軍・領護東夷中郎将・遼東郡開国公・高句麗王に除された(「魏書」列伝第88高句麗)。

ただ、北魏との関係はそう簡単ではない。翌436年に北燕最後の天王(ふう)(こう)が高句麗に亡命する(地図18)。北魏太武帝は長寿王に馮弘の引き渡しを命じるが、長寿王はこれを拒み太武帝の怒りを買う。その後長寿王と馮弘の関係がこじれ、馮弘が宋に助けを求めたので、結局長寿王は馮弘を殺した。

高句麗は以後北魏に頻繁に使節を送り、安定した関係を築いた。一方宋にも使節を送り続けた。宋は北魏への牽制策として高句麗を厚遇し、463年には長寿王を車騎大将軍・開府儀同三司に除した(「宋書」本紀孝武帝)。李成市は、高句麗が南北両朝に朝貢し双方の冊封体制に入ったことを、「南北朝の対立を巧みに利用した外交政策」と評している(武田幸男編『朝鮮史』p.56)。

準備は整った。長寿王は本格的な百済侵攻に着手する。危機を察した百済の蓋鹵(がいろ)王は、472年、初めて北魏に遣使し援軍を求めた(「魏書」列伝第88百済)。長大な上表文の冒頭は次のようである。

「臣、国を東の果てに建てましたが、豺狼〔高句麗を指す〕のために道が絶たれ、たとえ代々霊化を受けましたとはいえ奉藩の由なく、雲闕を遠く望みながら情が馳せること極まりなくとも、涼風に応じること少なかったのであります。伏して思うに、皇帝陛下の天休に協和し係仰の情に勝てず」云々(「三国史記」百済本紀蓋鹵王)

川本芳昭は、皇帝を賛美して高句麗の非道を訴えるこの文章が、478年の倭王武の宋皇帝への上表文に酷似していると指摘している。それについては後で触れることにして、問題は北魏の対応だ。上表文を受け取った北魏献文太上皇帝の長文の返書も、「魏書」と「三国史記」に残されている。色々述べているが、高句麗とは長い関係になるが百済とは初めてだとして、援軍要請には応じられないというものだった。長寿王の長年の地ならしが奏功したということだろう。

475年、長寿王は大軍で漢城を包囲した。城門を脱出した蓋鹵王は追撃され殺された。

この頃高句麗の版図は最大になったと言われている(地図21)。当時、高句麗王が周辺国をどのように見ていたか考えてみよう。

好太王碑文には、高句麗独自の元号「永楽」が使われている。暦が時間の支配を表すという考え方に立てば、高句麗王が中国皇帝の時間支配から独立し、自分の時間軸を持ったことを示す。また、百済と新羅を高句麗の属民とし、高句麗に「朝貢」する関係にあるとしている。

長寿王が建てたもう一つの石碑である中州高句麗碑が、1978年に朝鮮半島中部の忠清北道で発見された(地図21、写真22)。その碑文では、高句麗王を「大王」と称し、()(きん)(新羅王の当時の呼称)を高句麗から見て「東夷」に位置付けている。また、寐錦に衣服の賜授を行ったこと、軍官の派遣や軍兵の徴発を行ったことが記されている。これは、李成市『東アジア文化圏の形成』によれば、当時高句麗が新羅を政治的、軍事的に従属させ、自らの支配体制を中国王朝に似せて整備しようとしていたことを示している(同書p.75)。

これらのことから、5世紀代に高句麗は、中国南朝北朝双方の冊封体制に属しながら、同時に、高句麗を中心とし百済、新羅及び北方の周辺民族を属国とする独自の中華秩序を形成していた、少なくともそういう認識を持っていたと言えるだろう。

ワカタケル大王は同時代の高句麗をどう見ていたろうか。朝鮮における倭国権益の拠点である任那、属国視していた百済と新羅、これら朝鮮半島南部に北から強大な軍事力で押し寄せてくる高句麗に対し、危機感を抱き畏れたことだろう。同時に朝鮮をめぐるライバルとして捉えていたのではないか。さらに、高句麗の背後にあってその宗主国である中国、とりわけ山東半島を宋から奪回し躍進著しい北魏と、倭国はどのような関係を持てばよいか思いをめぐらしたのではないだろうか。

(次回に続く)