2026年9月25日 直原裕naohara hiroshi
前回は、五胡十六国から南北朝に至る時代の中国と高句麗を見てきました。今回は、このような東アジア情勢下で、倭国の対外政策がどのように展開され、ワカタケル大王に引き継がれたかを考えようと思います。
3 天孫降臨神話のはじまり
(4) 倭国の対外政策
資料25に、4世紀末から5世紀の倭国の対外政策の流れをまとめた。左欄は年代が概ね確かと思われる「三国史記」、好太王碑文、「宋書」の記録、右欄は「日本書紀」の記録だ。この頃の「書記」の年代は、聖徳太子の建国の枠組(本ブログ第1回)によって時代が引き伸ばされている上に、帝紀旧辞あるいは「書記」編纂時に誤った年代に整理されたと思われる記録もあって、正確なところは分からない。それでもいくつか左欄の記録と明らかに対応する記録があって(資料25では「=」で表示)、これをもとに関係する記録をおおよそ想定される年代の位置に置いた。
対朝鮮政策
好太王碑文に記された、4世紀末から5世紀初めの倭国と高句麗による朝鮮南部の支配権をめぐる戦いは、(3)に記したとおりだ。倭軍が百済、新羅に侵攻して両国を一時的に属国化したが、高句麗によって排除された。
この時代、百済から倭国に、後の渡来系氏族の祖となる弓月君(秦氏)、阿直岐(阿直岐史氏)、王仁(西文氏)が次々に来帰した。百済に対する軍事支援の見返りに、倭国の欲する知識人・技術者が送られてきた。軍事国家倭と文化先進国百済のこのような関係はこれ以後も続いていく。
4世紀末、百済の阿莘王(「書記」では阿花王)が、太子を人質として倭国に送る。阿莘王が没するとその太子が倭国の支援で帰国し、405年腆支王(「書記」では直支王)として即位する。腆支王の夫人は倭人と考えられ、その子久尓辛王が次王となる(在位420~427)。年少のため、倭国と関係深い木満致(「書記」応神25年条に引用する「百済記」によると、4世紀後半に伽耶地域権益をめぐって倭軍と共に新羅と戦った百済将軍木羅斤資の子であり、任那を基盤として倭国と行き来していた)が一時国政を執った。次の毗有王が即位すると428年倭国は大規模使節団を送った。毗有王(「書記」は直支王としているが既に没しているので、毗有王のことだろう)は倭国に妹を仕えさせた。人質だろう。次の蓋鹵王は、455年即位すると天皇(「書記」雄略2年条の記述だが安康天皇の可能性もある)に媛を貢進したがうまくいかず、弟昆支(「書記」雄略5年条には弟とあるが「三国史記」によると子。東城王の父)を人質として送った。
このように倭国は百済から人質を取るなどの人的つながりを継続し、これを背景に百済の内政に干渉した。百済が時に王位継承に介入されてまでこの関係に甘んじたのは、北からの高句麗の侵攻を喰い止めるには倭国の軍事支援を欠くわけにいかなかったためと思われる。
新羅も人質外交を行った。「三国史記」によると、402年に実聖王(当時新羅では王という称号は使われておらず尼師今などと呼ばれていたが、ここでは王と表記する)は前王の子未斯欣を倭国に、412年には同じく前王の子卜好を高句麗に、それぞれ人質に出した。ところが次の王で二人の人質の兄にあたる訥祇王は、忠臣朴堤上に人質奪還を命じた。418年朴堤上は、卜好については高句麗長寿王に直接会い弁舌巧みに話をつけて連れ帰り、未斯欣については倭国を騙して逃げ帰らせた。
(未斯欣を逃がした後、朴堤上は倭国の官人に処刑される。この話は「書記」にも載っているので、事実と考えられている。ただし載っているのは神功皇后5年条であり、ずっと古い。朴を処刑した官人が葛城襲津彦とされたために、帝紀旧辞編纂時あるいは「書記」編纂時に、この時代に置かれてしまったものと思われる。)
新羅は人質外交から脱却した。倭国は、以後従わなくなった新羅に対して、5世紀末まで軍事侵攻を繰り返した。
なお、新羅は高句麗の属国状態が長く続いたが、5世紀前半に百済から対高句麗で提携することを持ち掛けられ、中頃からは高句麗の南下に同盟して防衛に当たるようになる(羅済同盟と呼ばれ、この関係は6世紀半ばまで続く)。
対中国政策
倭国はこのように対朝鮮政策を実行しながら、併行して5世紀前半から、中国南朝宋に遣使朝貢しその冊奉体制に入っていった(西嶋定生『古代東アジア世界と日本』p.42)。倭の五王の遣使だ。資料25に黄色マーカーで表示した。それは421年、倭王讃によって始まる。「宋書」列伝第57夷蛮に、
「高祖(武帝劉裕)永初二年、詔して曰く、『倭讃は、万里貢を修む、遠き誠は宜しくかんがうべく、除授を賜うべし』と」
とある。
266年に邪馬台国連合女王台与が遣使して以降、倭国は中国への公式通交はしてこなかったのに、なぜこの時になって遣使したのだろうか。当時の情勢を思い浮かべてみると、対朝鮮政策は必ずしもうまく行っていなかった。新羅は倭国の侵攻への抵抗が大きく、進展が見られない。百済への介入は続けているが、高句麗の南下を喰い止めることはできていない。その高句麗と百済が、420年に東晋を継いで建国された宋に早々と遣使朝貢し、冊封を受けた。遅れてはならじという焦りがあったのだろうか。そうにも見えるが、その後50年以上遣使を続けたことを考えると、焦りを超えた政策転換の判断があったものと思われる。
なぜ遣使できたのだろうか。ひとつには、上述したように、渡航経路となる山東半島を410年から東晋、続いて宋が押さえていたことだ。胡族国家が支配していては危なくて遣使できなかった。もうひとつは百済のサポートだ。倭国に外交ノウハウが備わっていたとは思えない。サポートできたのは、倭国の友好国であってかつ宋への外交ルートを持っていた百済しかない。しかもこのとき百済は、母親が倭人の、久尓辛王の時代だ。
「書記」では応神37年条がこの遣使に関係しているのだろう。そこにこうある。
「三十七年の春二月戊午の朔に、阿知使主・都加使主を呉(宋のこと)に遣わして、縫工女を求めさせた。そこで阿知使主らは、高麗国(高句麗)に渡って呉に至ろうとした。すぐに高麗に至ったが、呉への道路がわからなかった。道のわかる者を高麗に要請した。高麗の王は、久礼波・久礼志の二人を付き添わせて、道案内の者とした。これによって、呉に至ることができた。呉の王は、工女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人の婦女を与えた」
記述が具体的だ。阿知使主・都加使主父子は、応神20年に来帰した中国系渡来人(加耶に住んでいた中国人か)で、東漢氏の祖とされている。対中国使節を務める能力を有していただろうし、倭国に来て十数年が経ち朝廷の信任も得られていたのだろう。しかしここには、遣使の目的が紡織技術者を得ることにあったかのように描かれている。おかしい。紡績技術者は欲しかっただろうけれども、そのために宋に遣使したのかというと、それは違うだろう。もうひとつ理解に苦しむのが、渡航を助けたのが百済ではなく高句麗だったということだ。あり得ない話だ。仁徳12年条、仁徳58年条にも高麗が出てくるが、これらも百済でないと変だ。「書記」編纂者は、記念すべき宋への初の遣使でありながら、その真相は書かないことにしているようだ。この点は後々考えようと思う。
さて、倭王讃とは誰だろうか。阿知使主らの宋への派遣が「書記」応神紀に記されているからと言って、讃が応神天皇だということにはならない。歴史が引き伸ばされているからだ。「古事記」に記された天皇崩御年の干支によると、応神の没年は西暦394年に当たるとされており(那珂通世の年代考訂による。後述する)、多少の誤差はあるだろうが応神の治政は4世紀第4四半期だろう。「書記」では応神の治政が87年続いたことになっているが、長過ぎる。実際は仁徳あるいはそれ以降の天皇の在位期間にあった出来事が、歴史が引き伸ばされた結果、応神の時代にあったことにされてしまったのだ。倭の五王の天皇比定についての私見は後述する。
「宋書」において倭国の王の名前が倭讃と記されていることについて、専門家は、倭はここでは国名ではなく王の姓であるとしている。これは百済、高句麗が、中国皇帝への朝貢に際して、王の姓をそれぞれ余、高としたのに倣ったものだ。当時(そして今も)倭国では王に姓はなかった。王は臣下に氏の名と姓を与える立場であって自分には氏の名も姓もない。その氏姓制度も、確立するのは6世紀になってからと考えられている。中国皇帝と冊封関係に入るに際し、国名を使って王の姓を作ったのだ。また、王個人の名前讃も、百済の腆支王が映、高句麗の長寿王が璉と名乗ったのに倣ったものだ。一文字の漢字で個人名を表した。ではなぜそれが讃なのか。
考えるに、その王を表すのに相応しい、好い漢字一字を選んだのではないか。讃と同字の賛は、「神の祐助をうける」の意だ。漢字に造詣の深い渡来人が選定したのだろう。当時倭国ではまだ漢字の訓は成立していなかったのだから、訓から漢字を選んだのではない。五王最後の王武について言えば、ワカタケルだからタケルと訓む漢字武を選んだ、というのではない。ワカタケルを表すに相応しい漢字は何かと考え、「止戈」あるいは「いさましい」という意味の漢字武を選定したのだ。「説文解字」(後漢2世紀初め頃に完成。渡来人が持ち込んでいたはずだ)から王側近の渡来人が選んだのではないだろうか。武をタケルと訓むようになるのは後の世のことだ。
讃が宋からどのような官爵を授けられたかここには書かれていない。冨谷至は、430年の遣使について、「宋書」本紀文帝に「倭国王が」とあることから、421年に讃に与えられた称号が「王」であったと考えられるとしている(冨谷『漢倭奴国王から日本国天皇へ』p.69)。皇帝の臣下であって倭国の統治を皇帝から認められたということだ(注)。
宋にわざわざ遣使したのは、紡績技術者を得るためでも、倭国王に認めてもらうためでもなかったはずだ。遣使の本当の目的が何であったかはっきりするのが、438年珍の遣使記録だ。珍は、使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王を自称し、宋皇帝にその除正(官爵を正式に授与すること)を求めた(「宋書」列伝第57夷蛮)。使持節は皇帝大権の一部が委譲されたことを示す上級職の官号、都督〇〇諸軍事は〇〇に軍政権が及ぶことを示す称号だ。通常、使持節都督と一体的に用いられる。安東大将軍は将軍号の一つで、征→鎮→安→平、大将軍→将軍の序列がある。
ポイントは都督〇〇諸軍事だ。倭はもちろんだが、百済、新羅、任那、秦韓(辰韓のうち新羅に統合されていない地域)、慕韓(馬韓のうち百済に統合されていない地域)つまり朝鮮南部全体に対する軍政権を主張し、それを中国皇帝に認めさせ皇帝の権威で確定する。何のためか。高句麗の南下に対抗するためだろう。これが遣使の目的だった。熊谷公男は、「倭王が高句麗を除く半島全域の軍政権を求めたのは、倭国こそ反高句麗勢力の盟主なのだという主張が込められていたと考えられる」と述べている(熊谷『大王から天皇へ』p.73)。当時の東アジア情勢と遣使の経過から見て、そうなのだろうと思う。
このうち438年に宋から除されたのは安東将軍・倭国王だけだった。使持節・都督〇〇諸軍事も大将軍も認められなかった。ただし、併せて求めていた臣下13人の官爵については、求め通りに認められた。国内での王の権威が皇帝によって担保されたことになる。
次の済は443年に遣使したが、この時も結果は同じ安東将軍・倭国王だった。ところが同じ済に対して宋は、551年になって使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事を加号した。宋が政策変更したのは、前年450年に宋が北伐を断行したが失敗し、逆に北魏に首都建康(現在の南京)近くまで攻め込まれたことが関係しているようだ。宋は対北魏のため倭国を自陣営に引き付けようと、倭国の求めに応じたものと考えられる。
それでも宋は、百済に対する軍政権は倭国に与えなかった。宋は百済に対して以前から使持節・都督百済諸軍事に除していた。宋からすれば、対北魏、対高句麗上、百済を見限るわけにはいかなかった。一方、新羅に対する軍政権を倭国に認めたのは、この時代新羅は、高句麗の属国の立場から脱却しつつあったとはいえ、宋からすればその東アジア秩序観において未だ重要な存在ではなかったのだろう。また、軍政権を認めると言っても、倭国が軍事的に支配することを宋が保障するわけではない。実際に支配するかどうかは当事国の実力次第とされていた。
さらに同年、宋は済を安東大将軍に進号させた(「宋書」本紀文帝)。この当時、高句麗王は宋から征東大将軍に、百済は鎮東大将軍に除されていたから、倭は大将軍としては両国に並んだ(征→鎮→安の序列はあるものの)ことになる。
ところが、次の興は460年に遣使し、462年に宋から安東将軍・倭国王に除される。使持節都督六国(百済を除く)諸軍事が消え、大将軍でなくなった。珍の時代に戻ってしまったのである。理由は不明だ。宋は、450年の北伐失敗、逆に北魏による侵攻を受けて、衰退に向かっていた。452年に文帝が皇太子に殺害され、その皇太子も弟(孝文帝になる)に殺される。その孝文帝の時代(453~464)である。同族相食む内政の混乱が続いていた。倭国王の降格はそのことと関係しているのだろうか。
421年讃の遣使から着実に進めてきた対中国政策が、ここにきて行き詰った。済の時代に、百済は除外されたものの宋皇帝から認められた朝鮮南部に対する倭国の軍政権が、白紙に戻ってしまった。対中国政策の立て直しが求められる状態で、倭国の王位は興から武ワカタケルに引き継がれることになった。
(注)この時さらに「安東将軍」号も与えられたという説がある。讃は425年に2回目の遣使をする。その使者が司馬曹達であると「宋書」列伝第57夷蛮に記されている。司馬が姓ではなく軍府の官職名を表しているのだとすると、その前に軍府設置権限のある将軍が任じられていなければならない。だから讃は421年に安東将軍に除されていたに違いないという論だ。しかしそうであれば、430年の遣使について、「宋書」は、「安東将軍倭国王が」と書いているはず。というわけで、いずれか断定することができない。
以上、5世紀後半に至る中国の動乱、高句麗の南下、そして倭国の対外政策を見てきた。5世紀中頃時点での東アジアの国際関係を図示したのが資料26だ。
倭国は、任那を拠点に朝鮮経営を進めていた。高句麗の侵攻を受ける百済に対して軍事支援を行い、その見返りに知識人・技術者を得るとともに内政に干渉した。倭国への従属を拒む新羅に対しては軍事侵攻を繰り返した。さらに、南進して倭国の朝鮮権益を脅かす高句麗に対抗するため、宋に朝貢し、朝鮮南部に対する軍政権を宋皇帝から認めてもらおうとしてきた。
百済は高句麗の侵攻に対して、倭国の支援を得るだけでなく、宋に朝貢してその後ろ盾を得、さらに新羅とも同盟を結んで対抗した。高句麗は北魏と宋の双方に朝貢して対中関係を安定させ、南下政策を進めた。新羅は、倭国の侵攻をしのぐ一方、百済と結んで高句麗の属国状態から脱しつつあった。
宋は450年に北伐を行って失敗し、逆に北魏に攻め込まれた。以後宋は王族同士の凄惨な殺し合いが続いて衰退に向かう。北魏は華北を統一した太武帝の時代(在位423~452)精強を誇り版図を広げた。北方遊牧民族固有の文化を色濃く残していた。漢化を本格的に進めるのは5世紀末になってからだ。5世紀中頃、宋・北魏関係は北魏優位に傾いていた。
ワカタケルはこうした構図を頭に浮かべながら、倭国の進路を探ったことだろう。
倭の五王はだれか
この項の最後に、倭の五王は誰なのか、私見を述べさせていただきたい。五王を九州や吉備の大豪族とする説もあるようだが、それはないだろう。中国皇帝が倭国の王と認めているのだから。後で取り上げる倭王武の上表文の内容を見ても、倭国の一豪族ではなく倭国を代表する王であり、「記紀」の天皇に当たることは明らかと思う。
五王の天皇への比定に当たっては、主として、第一に「宋書」に記された遣使・除正の年代と倭王の系譜(続柄)、第二に「書記」に記された天皇系譜を拠り所として、推定していこうと思う。天皇の諱に着目してその音韻や字形と讃珍済興武の漢字との関係から比定する試みもされてきたが、私はこの方法は採らない。上述したように、当時倭国では漢字の訓が成立していなかった。各王を表すに相応しい意味をもった一文字の漢字が選定され、それが讃珍済興武という個人名になったと考えるからだ。
資料27をご覧いただきたい。(1)は「宋書」に記された倭王の遣使と皇帝からの除正の記録(資料25からの抽出)、(2)は同じく「宋書」に記された倭王の系譜(続柄)だ。左を兄、右を弟としている。珍から済への続柄の記載はない(注1)。(3)が「書記」に記された天皇の系譜である。(2)と(3)を見比べて、一般に、(4)のように、済・興・武は允恭・安康・雄略に当たる(ほぼ通説と言ってよいだろう)、讃・珍は、応神・仁徳・履中・反正のいずれかに当たる(諸説あり)とされてきた。つまり問題は讃・珍の比定ということになる。
ここで430年の遣使記録に着目しようと思う。「宋書」本紀文帝元嘉七年(430)条に、「倭国王遣使献方物」とある。この時遣使したのは倭国王とだけ書かれていて、個人名が記されていないのだ。この王が、421年、425年に遣使した讃でも、438年に遣使した珍でもないとしたらどうだろう。
なぜそう考えることができるかというとこうだ。「宋書」編纂時(488年)に、430年に「遣使献方物」した倭国の王の名前は記録が残っていなかったとしよう。讃と同一人物なのか別人なのかも分からなかった。そこで「宋書」編纂者沈約は、「倭国王」と記した。また、438年に「遣使貢献」してきた倭国王珍は、前王の弟であるとする記録が残っていた。そこで沈約は、前王とは名前の記録が残る讃のことと考え、「宋書」列伝夷蛮に、「讃死、弟珍立」と書いた。
そう考えると讃と珍の間に、珍の兄の王がいた可能性が出てくる。Ⅹとしよう。Ⅹが430年に宋に遣使した。すると倭王の系譜(2)は、(2)’のようになる。これを天皇系譜(3)と見比べてみると、天皇系譜は(3)’のように考えることができるだろう。つまり倭王と天皇との対応関係は(4)’のようになる。讃は仁徳、Ⅹは履中、珍は反正だ。宋に遣使したのは倭の五王ではなく六王だったことになる。
一つの仮説、あるいは推理であるけれども、これで終えるのも中途半端なので、もしそうだとしたら天皇の在位期間はどうなるかを考えてみることにする。(5)をご覧いただきたい。
a欄は「書記」記載の天皇の在位期間をそのまま西暦表示したもの。允恭以前は明らかに歴史引き延ばしの対象になっている(在位期間の短い履中、反正は除く)。そこで、「古事記」に残る天皇の崩御年(注2)b欄に基づいてこれを修正する。それがc欄だ。「古事記」の天皇崩御年について、大津透は、「後世の推しあてで、『日本書紀』に先行するある時期の紀年構成の試みなのだろう」(大津『神話から歴史へ』p.125)と述べている。誤差はあるだろうが、一定の信頼性を認めてよいと思われる。しかしこのままでは(1)の遣使・除正の記録と合わないところがある。そこで遣使・除正記録が当該天皇の在位期間中に収まるように、天皇の即位年と崩御年を調整したのがd欄だ。年数を操作しているので、これで年代確定と主張するつもりはないが、仁徳から雄略の代の天皇の在位期間は、目安としてこれくらいなのではないだろうか。
(注1)珍から済への続柄の記載がないことを根拠に、倭国の王統が代わった、あるいは、同族であるにしても別グループに王位が移ったとする説がある。しかし、讃から武まで宋に対する倭国の主張は一貫している。また、5世紀を通じて築造された古市古墳群・百舌鳥古墳群は、河内地方の土地開発(治水、灌漑、農地造成)が統一的で長期的な計画に基づき持続的に行われたことを示している。これらのことから、五王は同一王統に属すると考えてよいのではないだろうか。「書記」の王統系譜に関する記述を信頼してよいと思う、と言うか、確たる根拠なしに「書記」の記述を否定するわけにはいかないように思う。
(注2)「古事記」真福寺本に、崇神から推古に至る歴代天皇のうち15代の天皇について、崩御年が干支で記されていた。分注崩年干支と呼ばれている。これを那珂通世が「上世年紀考」において、年代校訂を行って皇紀に直した。皇紀元年辛酉は西暦紀元前660年なので、皇紀年数から660を引くと西暦年数になる。例えば、応神の分注崩年干支は甲午、これを那珂は皇紀1,054年と推定した。これから660を引くと、西暦394年となる。那珂『増補 上世年紀考』p.74による。
(次回に続く)