直原裕naohara hiroshi
2026年10月9日
第17回、第18回では、ワカタケル大王が直面した東アジア情勢と先王の対外政策を見てきました。これらを踏まえ今回は、第16回の末尾に掲げた問い、ワカタケルはなぜ天孫降臨神話の原形を作ったのか、その答えを探ろうと思います。
3 天孫降臨神話のはじまり
(5) ワカタケル大王の考えたこと
倭王武の上表文
「宋書」列伝第57夷蛮に、昇明2年(西暦478年)倭国王武が宋の順帝に献じた上表文が全文引用されている。資料28の通りだ。
漢字4つでできた句を連ね、所々にやや長い句が交る。私は中国語が読めないが、じっと見ていると、リズムが伝ってくる。名文なのだろう。中国正史に上表文が全文引用される例は数少ない。中国文人官僚から見て、引用して歴史に残すに値する文章という評価だったようだ。
冨谷至によると、「使われている熟語、成語は、経書をはじめ宋以前の書を典拠として」おり、「完璧といってよい正統漢文」である(冨谷『漢倭奴国王から日本国天皇へ』p.88)。書いたのは多分、史部の身狭村主青と檜隈民使博徳。「書記」によると、雄略天皇はこの二人を寵愛したという(雄略2年条)。雄略8年と12年に宋に派遣したのもこの二人だ。中国系渡来人だろう。
現代語訳は色々な書物に載っているので省略する。全体の構成と骨子は、熊谷公男によると次の通りだ(熊谷『大王から天皇へ』p.74)。
第一段 祖国の征服戦争
先祖の代から征服戦争に明け暮れてきた。これによって皇帝陛下の天下は太平で、その支配が遠くまで及ぶようになった。
第二段 高句麗の無道
自分は王位について百済経由で朝貢しようとしたが、無道な高句麗の妨害で朝貢が滞ってしまった。
第三段 高句麗征討の悲願
父済は高句麗を討とうとしたが、突然その父と兄興が相次いで亡くなり、悲願を成就できなかった。
第四段 高句麗征討の決意表明と官爵の要求
父と兄の遺志を継ぎたいと思う。この強敵を打ち破ることができたら、先王と同じように朝貢し忠節を尽くせるだろう。そのため、自ら仮称している開府儀同三司とその他の官号を、それぞれ仮授していただきたい。
構成も内容も、ブログ第17回で紹介した百済蓋鹵王が472年に北魏に送った上表文と似ている。皇帝の徳を讃えるのは上表文の基本パターンだろうが、高句麗の無道を批判して自国の忠誠を主張するところなどは、百済からその上表文を入手し参考にしたのかも知れない。違うのは蓋鹵王の上表文が援軍を求めているのに対し、武の上表文は開府儀同三司の要求であることだ。
開府儀同三司は、府(独立官署)を開くことのできる特別職で、待遇は官僚の最高位(三司)と同等。宋の官位の序列上、将軍は三品、使持節都督と大将軍は二品だけれども、開府儀同三司は一品に当たる(冨谷前掲書p.74)。先に述べたように、高句麗長寿王は463年に宋孝武帝から開府儀同三司に進号されていた。先代の倭国王興は、同じ孝武帝から三品の安東将軍に降格されていた。これに対し武は、高句麗長寿王と並ぶ官爵を求めた。それが478年上表の主眼だった。
上表に対する宋順帝の回答は、
「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
だった。済の時代に戻った。百済に対する軍政権は依然認められなかったが、その他の朝鮮南部に対する軍政権は認められた。大将軍にも戻った。開府儀同三司は認められなかった。
百済が475年に高句麗に攻められ蓋鹵王が殺害されたことを考えると、このとき百済に対する軍政権が倭国に認められてもおかしくなかったようにも思うが、やはり宋は百済を見限ることはしなかった。武としては残念だったろう、あるいは怒っただろう。しかし開府儀同三司が認められると武ワカタケルは本当に思っていたのだろうか。
上表に至るまで
武の最初の遣使は477年だ。「宋書」によると、
「昇明元年(477)冬十一月己酉,倭國遣使獻方物」(本紀順帝)
「興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王」(列伝第57夷蛮)
477年11月に武は遣使し、使持節・都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事・安東大將軍・倭國王を自称し、宋皇帝によるその正式任命を求めた。済に認められた官爵プラス済に認められなかった百済に対する軍政権の要求だ。
武は翌478年5月に再び遣使した。「宋書」によると、
「昇明二年(478)五月戊午,倭國王武遣使獻方物,以武為安東大將軍」(本紀順帝)
「順帝升明二年,遣使上表曰:『(資料28の上表文の内容)』詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」(列伝第57夷蛮)
ワカタケルの即位は「書記」によれば457年だが、「宋書」によると462年に安東将軍倭国王に除されたのは興だ。こちらの方が信頼がおけると思われるので、ワカタケルの即位は463年と考えよう(前回の資料27の(5))。それにしても即位から14年経って初めて宋に遣使したことになる。讃(仁徳)はヤマト王権初の宋への遣使だから別として、Ⅹ(履中)、珍(反正)、済(允恭)、興(安康)は即位後速やかに遣使しているのと異なっている。そしてそのわずか半年後に2回目の遣使をして開府儀同三司を求めた。不可解な行動だ。
上表の真意
ワカタケルは即位後、宋に遣使する気がおこらなかった。兄興は遣使して宋孝武帝から除されたのは三品の安東将軍・倭国王であり、二品の使持節都督と大将軍を認められた済の段階から降格されてしまった。同じように遣使しても二の舞いだと思ったのではないだろうか。しかも北伐に失敗した宋文帝が皇太子に殺されて以降、宋は王族の内紛が続き衰退に向かっている。今さら宋皇帝から冊封を受ける意味はあるのかと疑問をもっても不思議でない。むしろ宋を圧し益々強大化している北魏皇帝から冊封を受けた方が良くはないかと思ったかも知れない。しかし、百済が472年に北魏に援軍を求めたもののあしらわれてしまったことを知っているから、それは不可能と判断しただろう。
ワカタケルはすでに国内において治天下大王と呼ばれていた。稲荷山古墳鉄剣に「天下」「大王」と刻まれたのは471年のことだ。「大王」は高句麗の広開土王(好太王)や長寿王に倣ったものだ。大王号は中国の官職にない、独自の称号だ。高句麗王同様ワカタケルも、中国皇帝から授けられる称号とは別に、独自の称号で自分を中心とした天下に君臨していた。
それでも477年なって宋に遣使し、百済に対する軍政権を求めたのはなぜだろうか。それは、百済が475年に高句麗に侵攻され蓋鹵王が殺害されたことから、宋は今なら百済に対する軍政権を倭国王に認める可能性が高いと判断したからと考えられる。皇帝も孝武帝から順帝に代わっている。ではその半年後に、さらに一品の開府儀同三司を求めるという要求の上乗せをしたのはなぜか。あわよくばという悪乗りなのだろうか。三品からいきなり一品に昇格できると本当に思っていたのだろうか。
逆なのではないか。百済に対する軍政権を宋皇帝に認めてもらいたいという考えを、吹っ切ったのではないだろうか。宋皇帝が倭国王に開府儀同三司を認めるわけがないと認識していたから、開府儀同三司を認めないことをもって宋の冊封体制から離脱すると宣言したのではないか。宋皇帝の臣下になってまでして百済に対する軍政権を認めてもらう必要はないと。熊谷公男が述べていることでもあるが、上表文第四節をもう一度読むと、開府儀同三司を授けていただいて高句麗を打ち破れば、先王と同じように朝貢し皇帝に忠誠を尽くせるとしている。裏を返せば、開府儀同三司を授けてくれなければ朝貢しないと言っているともとれる。478年の上表は、ワカタケルからの最後通告だった。だから青と博徳に完璧な上表文を書かせたのだろう。ワカタケルは冊封から離脱し自立することを決めていた。
ワカタケルという人
ワカタケルはどのような人物だったのか、人物像を探ってみよう。特異な、突出した人だったのだろうか。
「記紀」はワカタケルという人物の多面性を描いている。「古事記」のワカタケルは感情の豊かな人間であり、その雄略段は色恋の歌物語のようだ。「万葉集」巻頭の妻問い歌作者の姿がここにある。
「書記」雄略紀は、ワカタケルの好色で短気、権力欲、暴力性、悪逆非道さを描くことで始まる。即位したのも、前王没後直ちに機先を制して、自分が王になるために、時に人を騙して、他の皇位継承権者をすべて殺したからだ。最有力豪族葛城の円大臣も殺してしまった。誤って人を殺させることも多く、「天下は、天皇を誹謗して、『大悪の天皇である』と申した」とまで書かれている(雄略2年条)。
それが読み進めると、違う姿も見せ始める。第一に神との関係。葛城山を訪れた時のエピソードだ。これは「古事記」にもある。葛城山山中で自分たちと姿形が似た一行に出会う。「古事記」では天皇(ワカタケル)が誰何すると一言主の大神と答える。「書記」雄略4年条では、背の高い人が天皇に誰何し、天皇が名乗るとその背の高い人が一言主神と答え、そのあと一緒に狩りをする。「古事記」では天皇が一言主大神に「畏み白し」、弓矢などを拝み献ったとするので、一言主が上とされている。これに対し「書記」では、一言主が天皇を「侍送」した(お送り申し上げた)とするので天皇が一応上となっているが、天皇と一言主神との対等で親しげな関係が描かれているとみてよいだろう。このとき百姓が、「有徳な天皇である」と言ったというのだ。「大悪の天皇」から様変わりだ。
また、「書記」雄略7年条には三輪山の神の話が出てくる。天皇(ワカタケル)が少子部連スガルに「三諸岳(三輪山)の神の姿が見たいので捉えてこい」と命じた。スガルは三諸岳に登り大蛇を捉えて奉った。天皇は斎戒をしなかった。大蛇は雷のような音を響かせ目を輝かせた。天皇は畏まって殿中に隠れた。天皇は大蛇を岳に放ち、スガルには雷の名を賜った。ユーモラスな逸話だが、ここでもワカタケルは神を畏れ崇めるというより、神に近親感を抱き、神とたわむれているようだ。
第二に、短慮が改まり、判断が柔軟になることだ。狩りに出て、追われていきり立った猪に出くわす。天皇(ワカタケル)はその猪を刺しとどめた後、猪を恐れて樹に登り逃げてしまった舎人を斬ろうとした。これを皇后が、「いきり立った猪のために舎人を斬れば、陛下は狼と異なりません」と諫めた。天皇はこれを受け入れ、「人は禽獣を狩る。私は善言を得て帰る」と語ったという(雄略5年条)。
また、天皇は木工に楼閣を造らせた。木工が楼の上を走り回るのを采女が仰ぎ見て驚き、ささげていた饌をこぼしてしまった。天皇は木工が采女を犯したと疑い、殺そうとした。そのとき、近侍していた秦酒公が琴を弾き、「大君に堅くお仕えしようと言っていた工匠は何と惜しいことよ」と歌った。天皇は歌の意味を悟って木工を赦した(雄略12年条)。
どちらにも、ワカタケルの、人の意見を聞き自分の考えを変えることをいとわない様が描かれている。
第三に、進取の気性。身狭村主青らが宋から紡績技術職人を連れて帰国すると、彼女らを漢衣縫部などに組織化した(雄略14年条)。また、桑の栽培に適した国県に桑を植えさせ、それを、秦造酒に集めさせた秦の民に割り当て、庸調として献じさせた(雄略15、16年条)。新しい技術や産業を導入し、それを、人員を組織化して実現する力がワカタケルにあったということだ。
第四に開明性。ワカタケルが、身狭村主青と檜隈民使博徳の二人の史部をとりわけ寵愛したことは先に紹介した。渡来人二人が持つ中国文明に関する知識はもとより、二人が漢人ネットワークを通じてもたらす東アジア情勢に関する情報を、ワカタケルはことのほか重視したものと思われる。ワカタケルの対外認識は、二人の知識と情報を基礎に成り立っている。上表文はその結実だ。
第五にその対外認識。任那国司に追いやられた吉備上道臣田狭が、妻を天皇(ワカタケル)に奪われた(やはりワカタケルは悪逆だ)ため、当時倭国への朝貢を拒んでいた新羅に援助を求めようとした。このため天皇は新羅を討つよう命じた。そのとき、百済に優れた手末の才伎(手先を使う技術職人)がいるので奉らせるよう進言され、天皇は、新羅に派遣する軍を百済に向かわせることにし、勅書をもって百済からその才伎を倭国に呼び寄せた(雄略7年条)。
新羅が、高句麗から侵攻されたため、任那王に援軍を求めた。任那王は膳臣斑鳩らを新羅救援に向かわせた。膳臣の軍は高句麗軍を撃破した(雄略8年条)。
天皇は朝貢せず独自路線を歩み始めた新羅を征討するため、紀小弓宿禰、蘇我韓子宿禰、大伴談連、小鹿火宿禰(角臣の祖)を将として軍を派遣した。倭軍は新羅軍を打ち破ったものの、内紛が生じ退却した(雄略9年条。「三国史記」には、新羅は、462年に倭人に侵攻され敗れたが、463年には侵攻してきた倭人を大破したと記されている)。
これら雄略7~9年条の記述から、雄略は、百済を知識人・技術者供給源の属国、朝貢しない新羅は侵攻対象の属国、高句麗は倭国の朝鮮権益を脅かす対抗国と捉えていたと考えられる。4世紀末以降の歴代倭国王の認識と変わるところはないようだ。
中国に対してはどうか。「書記」には、宋に対し雄略8年と12年に青と博徳を派遣したとの記述はあるが、派遣目的については書かれていない。「書記」は冊封の事実に言及しないので、ワカタケルがどのような対宋認識を持っていたか、「書記」からは分からない。北魏に関する記述も全くない。ワカタケルの対中認識は、「宋書」に残された上表文等から推測する他ない。
ヤマト王権の歴史に大きな足跡を残したワカタケルがどのような人物だったのか、「書記」編纂者も疑問に思い解明しようとしたのではないだろうか。様々な記録や伝承から再現した姿がこれだ。総じてワカタケルは、即位したての頃は別として、それ以降は、権力欲は一貫して強烈だが、必ずしも特異な、突出した人とまでは言い難い。神懸っているところもなく、むしろ合理的だ。判断力や開明性などの面において有能な、理解可能な範囲にある人物であったように思われる。
ワカタケルの国家戦略
倭王武の478年の上表に至る経緯を見ると、ワカタケルには倭国の進むべき道についてのビジョンがあったように思われる。ワカタケルは倭国をどのような国にしようとしたのだろうか。
ヤマト王権は、王権樹立以降国土平定を進めてきた。上表文にある「祖禰、躬ら甲胄を擐き、(中略)東は毛人(蝦夷)を征すること五十五国、西は衆夷(隼人)を服すること六十六国、渡りて海北(朝鮮南部)を平ぐること九十九国」は、単に中国古典の文言を用いた文飾ということではなく、誇張はあるにしても一定の事実の裏付けがあったと考えられる。宋に上表すれば宮廷官僚から口頭試問のようなものを受けるからだ。先代までの諸王による国土平定の結果出来上がった、5世紀後半の倭国がどのような社会であったか、改めて考えてみよう。稲荷山古墳鉄剣銘にこうある。
「辛亥の年(西暦471年)七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ、其の児(名は)タカリのスクネ。(この後に、「其の児、名は」で続く5代の記述があるが、省略)其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル大王の寺(朝廷)、シキの宮に在る時、吾、治天下を左け、此の百練の(幾度も練り鍛えあげた)利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記すなり」
作刀者ヲワケは、磯城にあったワカタケルの王宮(泊瀬朝倉宮)において、臣の姓を与えられ、杖刀人の首(親衛隊の隊長か)として働き、ワカタケルの治天下を左けた。武蔵の豪族の一員であったヲワケは、この王権への奉仕の来歴を、自分の誉れと考え鉄剣に刻した。ヲワケは、任期を終えて武蔵国に帰ると、王権への奉仕が将来にわたって子孫に継承されていくことを祈願し、この鉄剣を自分の没後に埋納させたと考えられる(注)。
江田船山古墳大刀には、ムリテなる男が、
「天の下治らしめししワカタケル大王の世、典曹人(文官か)として奉事した」
と刻されていた。
5世紀後半、ヤマト王権の統治は、少なくとも東は武蔵、西は肥後に及んでいた(地図22)。それは、地方豪族が前方後円墳をヤマト王権の示す秩序に従って築造したというだけではない。地方の豪族の代表が、一定の職をもって王宮に出仕し王権を支えていた。地方に国造はまだ置かれておらず、ヤマト王権の出先の地方官は設けられていなかったようだが、6世紀以降の地方統治の端緒が出来つつあった。
豪族は、ウヂという始祖を共有する父系の血族集団を形成し、王から姓を与えられ、王権と政治的な関係を取り結んでいた。稲荷山古墳鉄剣に、ヤマト王権初代の王ミマキイリヒコイニヱ(崇神天皇)の叔父で四道将軍の一人と伝わるオホヒコを上祖とし、オホヒコからヲワケ臣まで8代の系譜が記されていたことについて、吉田孝は次のように述べている。
「そこには、明白な父系出自の意識が見出される。(中略)ヲワケ臣にとっては、神話的始祖オホヒコと自分が血縁でつながっていることを示す必要があった。それはなぜか。はっきりと証明することは難しいが、始祖の霊威(タマ)を継ぐためには、始祖と血縁でつながっていることが必要である、という観念が存在していたのではなかろうか。(中略)豪族のウヂの組織は、始祖が天つ神や大王に仕えたように、始祖の名を負う自分たちも大王(天皇)に仕えるという理念のもとに、始祖との系譜を骨格として成立したのである」(吉田「古代社会における『ウヂ』」p.46~)
地方の豪族が王権を支え、王権が地方の豪族を束ねる。ワカタケルは、先代の諸王から引き継いだ、このような豪族連合に王権が載る形の統治構造を、より垂直的なものに変えようとした。まず、自分が即位するために他の王位継承権者を軒並み抹殺し、王族内で王家の血筋を一つにまとめた。次に、王家に並ぶほどの大和の名門豪族で外戚でもあった葛城を斥け、また、邪馬台国連合以来の最大の地方豪族吉備を叩いた。武力と謀略によって王家に権力を集中させ、自分の周りは大伴や物部など古くから王に臣従してきた忠実なウヂと有能な渡来系官僚で固めて、独裁的な政権を作った。さらに朝鮮では、倭国に朝貢しようとしなくなった新羅に、倭国軍を編成して(実態は豪族連合軍だが)派遣し、侵攻を繰り返した。高句麗軍とも戦い、その南下をくい止めた。朝鮮南部を倭国の勢力圏に留めおくためだった。
卓越した権力を確立したワカタケルは、倭国の勢力圏を脅かす対抗国高句麗の王が使う大王号を取り入れて、自らを治天下大王と称することにした。ヤマト王権を中心とし、列島内の蝦夷や隼人を夷狄、百済と新羅を蕃国として大王が君臨するという考え方だ。中華思想を引き写したものだ。「治天下」は、渡来系の側近が、経書にある「修身斉家治国平天下」からとった言葉だろう。当時は、中華思想の概念でしか自分の権力を説明することができなかった。けれども、そこに中国は存在しない。
先代までの諸王は朝鮮南部に対する軍政権を宋に認めてもらおうと奮闘努力してきたし、ワカタケルも蓋鹵王の死をとらえて最後のピース百済の軍政権を得ようとしたが、ワカタケルは気が付いたのではないか。そんな必要はないと。現に独自に治天下大王と名乗っているのだからと。
中国皇帝の臣下になる必要はない。冊封から離脱する。中国皇帝の権威に頼ることなく、大王自らの権威に基づいて天下を治めていけばよい。大事なのは、高句麗の南下を押し返せる武力を倭国が持つことだ。豪族連合軍ではなく大王直属の一元的な倭国軍にしなくてはならない(新羅派遣軍が内紛によって失速した経験から、ワカタケルはこのように考えたのではないかと思われる。現実には、ワカタケルの死とその後短命の政権が続いたことによって、進展することはなかった)。それには北魏のように、大王が絶対的な権威を身にまとい、武力を含めあらゆる権力を大王に集中させることだ。絶対的な権威と権力をもった大王が天下に君臨する、これがワカタケルの目指す倭国像だったと思われる。(地図23)。
(注)ヲワケは武蔵の豪族か畿内の中央豪族か、中央豪族だとして稲荷山古墳の被葬者はヲワケ本人かそれともヲワケから鉄剣を下賜された武蔵の豪族かについて、専門家の方々の間でも諸説ある。大化の改新の200年近く前に、しかも国造がまだ置かれていない時代に中央の豪族が武蔵に派遣されてこの地を統治したとは考え難く、また、銘文の内容から作刀者がこの鉄剣を他の豪族に下賜するようなことはないと思われるので、私は、武蔵の豪族ヲワケが大和で作刀し、任を終え武蔵に持ち帰って埋納したという説に拠っている。
降臨と建国の物語を作る
ワカタケルには絶対的な権威を打ち立てる必要があった。中国皇帝に頼らず独自に。ワカタケルにとって権威の源とは何だろうか。彼が大王になり、諸豪族から抜きんでた存在になれたのは、その武力の行使によるものだった。ワカタケルに徳があるからではない。そのことは自分でもよく分かっていたはずだ。
中国の正統王朝と自認する宋では、皇帝は天から徳を認められ天命によって皇帝の地位にあるとされている。しかしその宋は、武力に勝る北魏に圧迫され今や衰退に向かっているではないか。北魏の在り方こそ自分がしてきたことと同じだ。大事なのは徳ではなく武だ。武力をもって我が権威の源とする、これを高らかに宣言しよう。ワカタケルならこう考えておかしくない。
また、ワカタケルは血筋の上で弱みを持っていた。ワカタケルはホムタ(応神)の三世孫だ。そのホムタは、ブログ第16回で述べたように、ヤマト王権を樹立したミマキ(崇神)からイクメ(垂仁)、オシロワケ(景行)と継がれた王統が一旦途切れた後、その末裔の姫に入婿して王位を継いだ。支配層を構成する諸豪族がウヂという父系出自集団であった当時、ワカタケルがどれほど強大な権力を握っても、この周知の事実は、王家の権威に翳りを与えるものだった。ワカタケルはこう考えたのではないか。
我が王統の祖ホムタは朝鮮経営を始めた偉大な王だ。しかしその出自に翳りがあるままでは、各豪族が持っている軍を大王の下に統合することはできないだろう。王家の出自を、栄光あるものにしなければならない。北魏、高句麗はじめ武力に優れた北方遊牧民族には、王家の始祖は天神の子で天から地上に降されたという神話があると聞く。それによって王は、数ある部族の中で聖なる卓越した存在として認められ、それで民族全体の軍を一元的に指揮することができているのだ。我が王家も天神の子孫とし、諸豪族から卓越したものにしよう。各豪族の軍を大王の下に統合し、高句麗に負けない一元的な倭国軍を作るには、そうすることが必要だ。ワカタケルはこのように考えたのだと思う。
ワカタケルはこの思想(近代の言葉で言えばイデオロギーだ)を物語にして表現することにした。当時倭国では、文書による伝達が渡来人などごく限られた人達の間でしか行われなかった。そこでは思想は、文書に記された理論ではなく物語の形で表され、口誦されることによって広がるからだ。
ホムタに始まる王家には、瓊瓊杵、火火出見父子の始祖伝承があった(と仮定しよう。そう考えるとその後のいきさつが理解できるからだ)。ワカタケルはこの始祖父子を主人公にして物語を作ることにした。始祖の霊威を受け継ぐことがウヂの本質であったように、王家においても始祖の霊威が権威の根幹だったからだ。ワカタケルはこの関係を逆さから見て、理想の大王像を始祖に投影した。そうして、瓊瓊杵が天神の命で地上に降り、その子火火出見が武力でヤマト王権を樹立したという物語を作った。はるか昔の始祖の物語なので、それは神話になった。これが降臨と建国の神話のはじまりだろう。それぞれ天孫降臨神話と神武東征神話の原形になった。
天孫降臨神話と神武東征神話の原形
ワカタケルの時代にこの二つの神話がどこまで肉付けされたか。「書記」の記述から想像するに、次のようなものだったのではないだろうか。
まず降臨の神話。天孫降臨神話の最も古いバージョンと考えられる「書記」神代第九段一書第四から、ワカタケルの作った降臨の神話は以下のような内容だったのではないかと考えられる。
なお、これはブログ第15回資料24中の天孫降臨神話①に相当する。
天神が子の瓊瓊杵を真床追衾にくるみ、天界から地上に降らせた。大伴の遠祖の天忍日命が来目部の遠祖の天槵津大来目を引き連れ、背に天磐靫を負い、臂に稜威の高鞆を着け、手に天梔弓と天羽羽矢を持ち、さらに八目鳴鏑の矢を副え持ち、また、頭槌剣を帯びて、瓊瓊杵を先導した。瓊瓊杵は高千穂(高く秀でた山)に降り立った。
天神にまだ高皇産霊の名はついていなかった、また、天界にまだ高天原の名はついていなかったと考えられる。それらの名がつくのは、天御中主尊・高皇産霊尊・神皇産霊尊の造化三神が設定された時だろう。「書記」神代第一段一書第四に、「高天原に生まれた神の名を天御中主尊、つぎに高皇産霊尊、つぎに神皇産霊尊という」とある。これらはセットだった。「天御中主」というのはネーミングがあまりにも理屈っぽく、5世紀後半の作とは思えない。これらはみな儒学の知識が流入した6世紀、欽明朝の帝紀・旧辞編纂時に命名されたと思われる。
降臨地は、高峰というだけで、特定されていなかった。降臨地が日向になるのは、日向神話(木花開耶姫の物語)が王権神話に取り入れられる6世紀になってからだからだ。
天神の子が真床追衾にくるまれて高峰に降りるというのは、この物語を作るに当たって参照した朝鮮の王権神話の影響と考えられ、初めからあったものと思われる。
降臨する瓊瓊杵を大伴と来目(久米)が完全武装して先導するというのも、前に述べたように初めからあった。
次に建国の神話だが、「書記」神武紀の中からどの部分が初めからあった原形に当たるか推定するのは難しい。「書記」神代が本文と数ある一書で構成されていたため成立過程を推定できたのに対し、「書記」神武紀は本文一つにまとめられているからだ。ワカタケルの時代から「記紀」編纂の時代に至るまでの政治過程で、様々追加・変更があったことは想像がつくが、元は何から作られたのか。大和平定は白紙からの全くの作り話なのだろうか。
三品彰英は、「古代伝承は、特定時点における特定個人の行為を歴史として語っているものではなく、(中略)時代とその文化相を様式的に語っているのである」(三品「神武伝説の形成」p.304)と論じ、神武東征神話を構成する各伝承を自身の文化相段階論に基づき分析し整理している(同書p.298)。ワカタケルもその時代に既にあった、歴史的事実を語っているかどうかは分からない伝承を使って、火火出見による大和平定の物語を組み立てた、そう考えてよいと思われる。三品の整理を参考にして、試みに、初めからあったと言えそうなところだけ抽出すると次のようになる。
なお、これは、ブログ第15回で資料24中に空ボックスで表した、神武東征神話①の内容に当る。
瓊瓊杵の子火火出見が熊野から大和に向け進軍した。山中が険しく道を進めなくなった。八咫烏が現れた。大伴の遠祖の日臣が、指揮官として大来目を率い、烏の向かうままに進軍して菟田に着いた。それで日臣は道臣の名を与えられた。菟田には兄猾と弟猾の二人の首長がいた。弟猾は帰順したが、兄猾は反逆を企てた。道臣は兄猾を誅殺した。酒宴で火火出見は来目歌を詠んだ。菟田には、土地の賊である八十梟帥や兄磯城が盤踞していた。火火出見は、天神が、香具山の社の土で平瓮と嚴瓮を作り天神地祇を祭って潔斎し呪言をとなえよと訓える夢を見た。火火出見は椎根津彦(倭直部の始祖)と弟猾に命じ、天神の訓え通りにさせた。火火出見はまず国見丘の八十梟帥を撃破し、「神風の伊勢の海の大石にや(中略)撃ちてし止まん、撃ちてし止まん」と歌った。次いで道臣に、大来目部を率いて賊の残党を誘い出すよう命じた。道臣は酒宴を開いて賊兵を迎え入れ、油断させておいて斬り殺した。軍兵は来目歌を歌った。次に帰順しようとしない兄磯城を、椎根津彦の作戦で挟み撃ちにし破った。次に長髄彦と交戦した。戦いは膠着した。火火出見は、「みつみつし来目の子等が」と来目歌を歌った。長髄彦は、「自分は、天神の子で天磐船に乗って天から降ってきた饒速日(物部の遠祖)に仕えている」と言い、戦いを止めようとしなかった。饒速日は長髄彦を殺し、火火出見に帰順した。火火出見は饒速日が忠誠を示したため褒賞し恩寵を加えた。さらに、帰順しない各地の土蜘蛛を誅殺した。磐余の地に都を開き即位した。火火出見は始馭天下之大王と呼ばれた。
主役は神倭磐余彦ではなく火火出見である。カム(カミ)・ヤマト・イワレ・ヒコというのはあまりに人為的なネーミングだ。5世紀後半の名前とは考え難い。火火出見にこの諡が付けられるのは6世紀の帝紀旧辞編纂の時代と考えられる。そもそも諡を付ける習慣が始まるのは、和田萃によると、宣化朝以降とされている(和田『古墳の時代』p.361)。ワカタケルの時代に神倭磐余彦と呼んだはずがない。帝紀旧辞の段階で、大和を征服したとされる火火出見に、神倭磐余彦の諡が与えられたのだろう。
瓊瓊杵がどのようにして火火出見を生したかは語られていなかった。木花開耶姫神話が取り入れられるのは、6世紀帝紀旧辞編纂時と考えられるからだ。
日向から熊野までの海上東征の話も、6世紀に日向神話が取り入れられて以降にできたものであって、原形にはなかった。では火火出見の軍は熊野の前はどこにいたのか。どこから進発したとされていたのか、という疑問が生じるが、それはホムタ(応神)の出自はどこかという問題とおそらく同じことであり、分からない。
兄猾、八十梟帥、兄磯城、長髄彦及び土蜘蛛を誅殺する話は、当時大和地方にあったそれら様々な伝承を、火火出見の大和平定の物語の素材に使ったものと思われる。
椎根津彦の活躍は、倭直がワカタケルの治政上重要な存在であったため、その始祖を顕彰したものと思われる。
三品によると、八咫烏が先導するという伝承は弥生時代からあったが、それが天神(高皇産霊)の使者とされるのは推古朝以降とされる。
日臣(道臣)、大来目、饒速日が活躍するのは、彼らを始祖とする大伴、来目、物部がワカタケル大王の治政を支える臣下だったからだ。
建国後、火火出見は始馭天下之大王と呼ばれた、とした。ミマキ(崇神)が御肇国王と伝承されてきたが、国を建てたのは火火出見であって自分はその子孫であるとワカタケルは主張した。
「日本書紀」に記されている、大和征服軍の進発は瓊瓊杵の降臨から179万2,470余年後であること、毒気に病んだ神武を助けるため天照大神の命で武甕雷が高倉下を介して韴靈を授けたこと、吉野に巡幸したこと、長髄彦との戦いで金色の鵄が現れたこと、建都の詔勅を発したこと、橿原の地で宮殿を造営したこと、辛酉の年(紀元前660年)に神武が即位したことなどは、原形にはなかった。後の時代に書き加えられたものだ。
降臨と建国の神話は、合わせて、大王の統治の正統性を根拠づける王権神話となった。我が国で初めてのことだ。王権神話は、王がワカタケルという人物だったから作れたのだと思う。また一方、ワカタケルにとっては、宋の衰退、北魏の強大化、高句麗の南下という状況下、倭国を大王中心の集権国家にするために、作るのが必然だったように思われる。
天皇制とは何かと考えると、なかなかに難しい。切り口によって答えは色々あるだろう。天皇制はいつ始まったか、これは天皇制をどう捉えるかによる。天皇制の思想面に着目し、天皇制思想の核心が、初代の王は天神の子孫であり、その血が代々の王に受け継がれているとすることだとすると、それはワカタケルに始まると言ってよいのではないだろうか。
(ブログ第16回~第19回の出典)
金富軾「三国史記」1145、林英樹訳『三国史記 上・中・下』(1974~75、三一書房)、佐伯有清編訳『三国史記倭人伝』(1988、岩波文庫)
房玄齢他「晋書」648、中國哲學書電子化計劃(ネット)
沈約「宋書」487、中國哲學書電子化計劃(ネット)、藤堂明保ほか訳注『倭国伝』に「宋書」列伝第五十七夷蛮のうち倭国の部分が載っている。
魏収「魏書」554、中國哲學書電子化計劃(ネット)
(ブログ第16回~第19回の参考文献)
三品彰英「記紀の神話体系」「神武伝説の形成」(『三品彰英論文集第1巻 日本神話論』1970、平凡社)
大林太良『日本神話の起源』徳間文庫(原著は1961)
岡田精司『古代王権の祭祀と神話』1970、塙書房
井上光貞『神話から歴史へ』中公文庫(原著は1965)
川本芳昭『中華の崩壊と拡大』講談社学術文庫(原著は2005)
礪波護・武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』中公文庫(原著は1997)
古松崇志『草原の制覇』2020、岩波新書
武田幸男編『朝鮮史』2000、山川出版社
熊谷公男『大王から天皇へ』講談社学術文庫(原著は2001)
李成市『東アジア文化圏の形成』2000、山川出版社
西嶋定生『古代東アジア世界と日本』岩波現代文庫(原論文は1962)
冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』2018、臨川書店
那珂通世『増補 上世年紀考』1948(原論文は1897)、国会図書館デジタルコレクション
大津透『神話から歴史へ』2010、講談社
吉田孝「古代社会における『ウヂ』」(『日本の社会史 第6巻 社会的諸集団』1988、岩波書店)
和田萃『古墳の時代』小学館ライブラリー(原著は1988)
(「3 天孫降臨神話のはじまり」はこれで終わり)